神への祈りに人生を捧げると決めた修道士たちが集まる修道院は、中世ヨーロッパ世界において、単なる隠遁の場ではなく非常にアクティブな文明の原動力として文字通り働きます。
彼ら修道士たちは修業の場として「エジプトの砂漠」を理想としました。
修道士たちにとっては野生動物が群れをなし、鬱蒼と広がるヨーロッパの森は、「エジプトの砂漠のように過酷な試練の場」として位置づけられたのです。
このため修道士たちは、修行の場として「ガリア人もゲルマン人もいない無人のヨーロッパの森」を選び、非常に活発に開拓していきます。
これは中世初期の王や貴族たちにとっても非常に都合の良い事で、彼らは使い物にならない、当時はほぼ無限に広がっていたヨーロッパの森林地帯を「修道院に寄進」して自治権を認め投資していきました。
10世紀に行われるグレゴリウスの改革以前は、修道院も教会も王や貴族たちの親族が修道院長や司祭になるので、「修道院に寄進」することは実質的に身内に開拓地を与えるのも同然でした。つまりメリットしかない!
すると修道院は与えられた土地に修道士たちを派遣するとともに、「『旧約聖書』の立法に定められた十分の一税を収めれば開墾する権利」を庶民たちに与えるのです。
その開墾の技術や計画の指導、道具や開墾当座の食料などの生活必需品はキリスト教徒たちにとっては『使徒行伝』に説かれているように、
「信じた者の群れは、心を一つに思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものだと主張する者がなく、いっさいの物を共有にしていた。
使徒たちは主イエスの復活について、非常に力強くあかしをした。そして大きなめぐみが、彼ら一同に注がれた。彼らの中に乏しい者は、ひとりもいなかった。
地所や家屋を持っている人たちは、それを売り、売った物の代金をもってきて、使徒たちの足もとに置いた。そしてそれぞれの必要に応じて、だれにでも分け与えられた。」
修道院が目指す生き方はこのような「すべてを共有し分かち合う世界」であり、彼らは自給自足を目指して開墾し、糸を紡ぎ、家畜を育てたのです。
さらに言えばキリスト教徒とローマ帝国の庶民の最大の違いは、『新約聖書』やベネディクトゥスの『戒律』にもあるように、「清貧と勤勉」は美徳とされていたことです。
彼らは神の国に導かれると信じて、極めて高いモラルと規律によって新しい修道院の寄進地の開拓に勤しんだのです。
こうして新たな修道院と開拓地ができると、「人間たちの領土」が広がり人口も増え、生産力も増加します。開拓地で培った農作物や土壌や開墾技術やノウハウなどは、修道院に蓄積されアップデートされますので、今度はより効率的に開拓ができるようになります。
こうした宗教的情熱によって支えられた「開拓者としての修道院制度」は、当時の世俗の王や貴族たちにとっても都合の良いことでした。現地に住むゲルマン人やガリア人と戦うことなく、領土や住民たちが増えていくのですから。
さらに言えば自分たちが手つかずであった土地を修道士たちが開拓していく様を見て、現地のゲルマン人やガリア人の部族たちも「キリスト教に改宗すれば、自分たちの領地や住民を増やすことができる」と進んで改宗する様になっていったのです。
もちろん武力による抗争やキリスト教徒による異教弾圧もあったのは確かですが、大局的に見れば「キリスト教に改宗することが経済的にも生産性においても有利」だったので、ヨーロッパ全土にキリスト教が広まっていった最大の原動力だったのです。
こうした修道院はただ開拓するだけでなく、前述したようにキリスト教ならではの共有と分配の教えから、技術や知識や資本や人材などを相互に融通し合うネットワークを形成して、開拓と発展を進めていったのです。
Herbert Ritsch (@chestnuttree)撮影 - オーストリア
このような「開拓者としての修道院制度」を最も活用した国がフランク王国です。
469年に改宗したメロヴィング王朝の始祖クローヴィスを皮切りに、フランク王国では修道院への寄進と開拓を奨励し、11世紀にはクリュニー修道院系列の修道院だけでも1500もの修道院を傘下に収めるほど広まっていき、シャルル・マーニュことカール大帝の頃には一大キリスト教国として西ヨーロッパ全土に広がる覇権国家として発展していくのです。
フランク王国が瞬く間にヨーロッパ全土に覇権を広げたのは、もちろんカール大帝の優れた統治能力と武力もありますが、修道院制度によるPlan(計画)→ Do(実行)『開拓』→ Check(確認)→ Act(改善)という開拓のPDCAサイクルが非常に効率よく回っていったのは見逃せない事実です。
このように修道院制度による開拓は、修道院という技術と知識の蓄積とネットワーク化によって、ヨーロッパ世界の人々の農業技術や牧畜技術、鍛冶技術、建築技術などを急速に発展させていくのです。
ローマ帝国崩壊後にローマ人たちに「野蛮人」とされたガリアやゲルマンの人々と原野は、キリスト教徒たちの「清貧と勤勉」による修道院制度によって急速に開拓され、人口を増やし、技術を発展普及させていったのです。
さらにヨーロッパ全土に広がり開拓を続ける修道院のネットワークはフランク王国が滅亡したあとも広がり続けます。
10世紀頃には「カノッサの屈辱」で有名な「グレゴリウスの改革」が行われ、教会権力が世俗権力と切り離され独立するほどに、「ヨーロッパを開拓し布教してきたキリスト教」の影響力は強大になっていくのです。
皮肉な事ですが「清貧と修行のため」に荒野に建設されていったはずの修道院も、開拓者として生産性を高める事によって「富裕層」の側になっていったのです。
このため、修道院の会派はベネディクト会→シトー会→托鉢修道会のように、「キリスト教の教義と戒律のために清貧に立ち返るため」に何度も改革を行っています。
宗教改革というと、16世紀のカトリックとプロテスタントが分裂したルター派やカルヴァン派の宗教改革が有名ですが、それ以前の10世紀から15世紀にかけての中世時代に何度も「修行のために開拓した筈なのに、自然に資本と技術が集約されてしまう」せいで豊かになってしまい腐敗する修道院や教会勢力からの「清貧に立ち返れ」という宗教改革(プロテスト)が繰り返されてきたのです。
中世ヨーロッパという時代は、一面から見ればヨーロッパ大陸に広がる大森林の開拓の歴史と言えるでしょう。
そんな開拓の中心には修道院の存在があり、彼らは「新しい修業の場」として資金や資材や人材を集め、開拓を計画し、技術を蓄積し、三圃制農耕や車輪犂や水車や風車、様々な農作物の品種改良、牧畜の技術などを蓄積して進歩させていったのです。
そうして開拓されていくヨーロッパの地において、キリスト教徒たちがまず植えたのが、「パンとワイン」の原材料である麦とブドウでした。
という中世世界を体験できる『Kingdom Come: Deliverance II』をみんなもプレイしよう!
(次回は 2025/10/29 に公開予定です。お楽しみに!)